大衆架空

誤報や固定観念は検閲ほど恐くない

ウェザロール ウィリアム

翻訳・岩渕玲子

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日米小説・その大いなる誤解:誤報や固定観念は検閲ほど怖くない in
バイ ザ ウェイ, Volume 3、Number 1、January/February 1993、pp. 29-31.

英語版 Popular fictions


目次

日本禍」論
反省すべきステレオタイプ
空想のギャップ
どちらの日本か?
情報をごまかす専門家
表現の自由


米国では、日本を舞台に,あるいは他国にいる日本人を取り入れた新小説が、週に一冊ほど出ている。アメリカやアメリカ人も絡んでいる小説は日本にも同じぐらい出ている。この小説は、純文学、ミステリー、ロマンス、西部劇から戦争、冒険、歴史、SF小説にまで及ぶ。ベストセラーになるのは少ないが、発行部数を問わずかなりの誤りを含んでいることが多い。こうした誤りは「総合理解」の番犬を吠えらせるが、間違いだらけの小説にさえも、「正確な」見解を勧める国家主義者や民族主義者の宣伝よりも正直で健康的なところがある。


「日本禍」論

多数のアメリカ小説は世界中とまではいかなくても米国乗っ取り、あるいは破滅させようと陰謀を企てる日本人有権者を描く。こういう悪者は第二次世界大戦の敗戦に対する復讐願望や人種の優越感、そして欧米の道徳的に墜落した思想や行動から世界を救えることができるのは日本だけだ、しかもそのために世界を統治し日本化しなければならない、という被害意識性の誇大妄想に駆けられてる。

しかし、マイケル・クライトンの小説『ライジング・サン』(早川書房 1992)のなかの悪役の多くは、アメリカの科学技術を買ったり市場占有率を高めたりするように在米日本企業の野心を手助けしようと身勝手な行動をとるアメリカ人政治家や会社員である。けれども、この「修正論」のメッセージの新鮮さは、世界中のジャーナリストや学者が日本について書く多くの記事や本と同じように、 「日本は」、「日本人は」などのような決まり文句によって損なわれている。

『ライジング・サン』の主人公は、クライトンによると、「読者に信じてもらいたい」日本通の警部であるが、この見せかけけ「ジャパン・エキスパート」が二ヶ所で 「日本人は世界でいちばん、人種差別的だということだ」、と主張している。しかし、この主張が不可能である理由は少なくとも二つある。一つ、『ライジング・サン』中の至るところに描かれているイメージに反しては、「日本人」は人種でも民族でもない、単なる日本の国籍を共通に有する人々に過ぎない。二つ、小説の中に語られている差別行為は、全体としての国家でも国民でもなく、個人の行動である。


反省すべきステレオタイプ

ますます多くの日本の大衆小説は、海外での快楽、スリル、危険を間接的に味わいたがっている読者の空想を満足させている。そして、かなりの小説は、いろいろな外国人を隣人、同僚、恋人のように、また東京のようなジャングルの中の加害者や被害者のように描いているのである。

楢山芙二夫の『ロス・リトル東京殺人事件』(祥伝社 1992)は、民族主義者によって好まれている同じ「血」の隠喩を使って人々を描いている。あるアメリカ人女性は、「父親のアイルランド人の血が半分と、母親の日系人の血が半分混って出来上がった、美事なプロポーションをしている」、しかも「欠点といえば、いくぶん、母親よりも父親の血のほうが濃かったとみえて、自制心というか、我慢することに関しては、あまり得意なほうではなかったのである」、と述べられている。

また、女優になることを夢みてアメリカにきて娼婦になった日本人女性と、彼女を殺すことになる妻のいる日本人男性は、先のアメリカ人女性より悲劇的な運命に出会う。男性は、逮捕されるところで、「ロサンジェルスになんか来なけりゃよかった」、と泣きつく。

この二人が出会った悲劇はたいてい自分が作ったものである、と物語が連想させる。しかし、この小説は、全体として、「天真爛漫な」日本人が「危ない」アメリカを避けた方がよい、と警告する多くのゴールデンアワーのテレビ番組の親戚である。


空想のギャップ

連結している氷山の一角として、この二冊の小説は、娯楽小説がどのように誤報や不平衡さ、固定観念に損なわれてしまうかを表わしている。そういった情報上の欠落は一般に「日本」と「アメリカ」というような「国」とか 「文化」の間の「誤解」や「摩擦」と連想されている。

「日本」と「アメリカ」、あるいは「日本人」と「アメリカ人」の間のいわゆる「認識ギャップ」を監視する評論家や知識人は、こうしたギャップを反映する一例としてよく大衆小説を取り上げる。しかし、「認識ギャップ」という概念そのものは誤信である。なぜなら、このような地理的かつ人口的なものは、「認識」なんかできるわけがないからである。つまり、「日本はこう考えている」とか「日本人はそう信じている」などのような表現は、混喩のようなものである。

「日本は」とか「日本人は」というような言い回しは、このようなものが、思考や知覚の能力を持つ、統一の神経系のある、一匹の生物として存在している、ということを暗示している。「日本」と「日本人」が中枢神経系や脳を持つ、統合された有機体組織である、というこの誤信は、国家主義者や民族主義者のロマンチックなこころにしか有り得ない、「国家」や「国民」の連帯感の程度を前提としていることである。


どちらの日本か?

「郷に入っては郷に従え」とは、「どちらのローマ人に従うのか。良い方なのか、それとも悪い方なのか」とどの国についても尋ねる勇気がなければ、いい忠告ではない。日本が複合社会を持つ広い国であると認めることは、日本は単一民族、単一言語、単一文化、それに単一歴史経験に代表されている国である、という神話から自由になる第一歩なのである。

日本という国は、地理的に広大であり、その人間の動物相も多様である。この生態圏の政治的な国境を決めたり守ったりする、いわゆる「国家」さえ、公式の意見を同一の声で述べることが殆どできないほど、広くて複雑である。

外務省または所属している財団法人が英語で発行する、日本を「説明」する小冊子や書籍は、日本の少数民族、つまりアイヌ系、沖縄系、朝鮮系、中国系などのような非大和系日本人、それに朝鮮系、中国系、アメリカ系、フィリピン系などの在日外国人について触れるものは、殆どない。1871年の太政官布告に解放された当時まで法の下に賎民扱いを受けた日本人の子孫として、今日までも様々な形で差別を経験しつずけている部落民のような社会的な少数者に関しても、殆ど触れない。

日本に良い顔ばかりを意識的に付けようとする殆どの出版物に反しては,日本語はたった一つの国語ではないし,神道はたった一つ「土着」の宗教でもない。「和」とか「合意」があれば、対立も不和もある。全ての日本人が「自然」や「平和」を愛するわけではない。このゆえに、「日本文化」というのは、単数形よりも複数形で考え直した方がよさそうである。


情報をごまかす専門家

英語や日本語で書かれた書物を翻訳するときに、無知を深める検閲(原文を歪める編集者などに呼ばれている「修整」)が行われることが少なくない。ノンフィクションや純文学と同じく大衆文学の場合にも英語から日本語への翻訳の方が多い。だから、善し悪し、日本語を読む人には原文と違った翻訳作品を読む機会も多い。

『ライジング・サン』の日本語版の読者も英語版に描写された日本における社会問題のイメージと違ったイメージを食わせられている。例えば、英語の原文に書いてある、いわゆる「部落民」の話は日本語版から消えてしまった。ジェームズ・クラベルの歴史小説 『将軍』、エドウィン・ライシャワーの『ザ・ジャパニーズ』とかディビッド・カプランとアレック・デュプロの『ヤクザ』のようなノンフィクションの日本語版も、部落民のような社会的少数者、または在日朝鮮人や在日中国人のような少数民族の話もイデオロギー的に書き換えられたり、省略されたり、あるいは消除されてしまった。このような検閲は、日本の出版業界には普通のところである。

こうしたような「自己検閲」また「自粛」は、自分の権益やイメージを守りたい個人または団体に加えられる圧力から、あるいは望ましくない注目、脅迫、またはテロ行為の恐怖から生じる行動に限られていない。日本の社会においては「誤解」を生じる恐れのある部分を「修整」することによって、原文に表現されている生の意見から日本語版の読者を守る義務感に強要される行為でもある。

だから、日本に来る前に数冊の大衆小説を読んだかも知れない留学生は、日本の小数民族や差別問題、あるいは帝国日本の政府が主催した迫害や凶行などを少し知っている傾向がありながら、それほど日本について知っている筈のない外国人の口から初めてこうした話を聞いて驚いたり、恥を感じたり、動揺したりする日本人の同僚が多いのは、ちっとも不思議ではない。日本の権力構造の中には、原文を充実に翻訳したり、その内容の正誤の判断を日本語版の読者に任せる勇気がないので、「思想自衛隊」ごっこをやりたがる翻訳者、編集者、出版者なども多いことも、特に不思議ではない。


表現の自由

米国や日本を舞台にする大衆小説には、間違った情報や誤解を招くイメージが多いかも知れないが、正統派の日本人論に従う作品よりも、現実的な世界への案内として信頼できるところもある。とくに社会を「指導」するために、いわゆる「文化的価値」を道具とする有権者がたくさんいる、しかも生の金力や暴力に弱い世の中には、「国民性」のようなものより個人性格の方が最終的に人間情勢に対する影響が大きい、という事実は、大衆小説の作家の方が主流の学者や評論家よりも認めがちである。

人間社会における本来の無秩序をうまく見せてくれるのは、大衆小説のもう一つの利点である。国家主義の宣伝者が都合のよい秩序を美化したりその「善」を強調したりするけれども、多くの小説家は、どの国にも、人間社会、自然環境、つまり世界を犠牲にしながら自分の利害しか計算してくれない「悪」もある、と思い出させてくれる。産業スパイとか政治謀略などを題材にする大衆小説は、世の中の誰でも、「人間」と自称する動物として、イデオロギーや権力に腐敗させられる脆さがある、ということも教えてくれる。

多くの大衆小説家は、ある主義の宣伝者でなく、語り手のつもりである。自らの無知の所為で、ある国やその民衆の描写を誤ることが時々ある。そして、彼らの想像は、時には彼らの偏見を反映することもある。しかし、自由社会においては、人間状態に対する彼らの見方が、政府や企業が宣伝する正統論をよく相殺している。


経歴紹介

ウェザロール ウィリアムは、1941年サンフランシスコ市で生まれた。1975年に日本に移民し、1983年に永住権を取った。1982年カリフォルニア大学バークレー校で 『古代日本における殉』という論文を提出して博士号を取得した。以降、ジャーナリスト、研究家、教師などとして活動している。小説については、日本語の短編を翻訳したこともあるし、自分のものを英語で書いたこともある。国際教育振興会の教師でありながら、国立精神保健研究所の客員研究員や日本自殺予防学会の役員として自殺の研究もしている。少数民族や大衆文学なども研究している。